浦和レッズ成功のカギ |
3年ぶりのブログです。。 先日、ある教育機関でのレポート(論文ではありませんのであしからず。。)がでたので、ついでに掲載しておきます。 本論:浦和レッズの成功のカギについての先行研究は、ぶぎん地域経済研究所の主任研究員である松本博之氏のものがあり、他には幾多の書籍、コラムがあるが筆者の知る限りでは経営学的見地から推察されているものや統一的な見解を示唆しているものは、無いように思われる。よって、以下の文章はある程度、他者の意見も取り入れながら、私自身の仮説も含めながら展開するが、時間的な制約もあることから、ここでは出典や検証に乏しいことはご容赦願いたい。 さて、浦和レッズがリーグを代表する観客動員数と予算規模を持つようになったことは、次のことが考えられる。 ①地理的要因 浦和レッズが浦和市に誘致されるまで、浦和周辺地域には目立った娯楽施設がなかった。西武ライオンズは、所沢市という埼玉県の西部地域にあり同じ埼玉県にありながらも、生活圏ではない。 また、海水浴をするにでも神奈川・千葉といった地域に流れ、遊園地は豊島園・後楽園遊園地や東京ディズニーランドに訪れることが多く、野球も多くはヤクルトスワローズ・読売巨人軍と魅力的なものが浦和周辺地域になかったことがあげられる。 地域的には、東京地域に勤務するベットタウンの色合いが強く、新幹線などの停車駅もなく、長らくこの地域に住んでいるものも地元への誇りとなるべきマグネットがなかったといえる。 ただし、旧浦和地域は文教都市でもあり、また高級住宅街の部類であったことから、潜在的な可能性も秘めていたものと思われる。 ②埼玉におけるサッカーの歴史 日本サッカーとして埼玉県における歴史が古く、日本サッカー御三家と呼ばれるように、埼玉県のサッカーは強豪である。特に、高校サッカーでは、浦和高校・浦和西高、浦和南高、市立浦和高校と全国大会でも実績を残したし、その後日本を代表する選手たちも数多く輩出した。また、サッカーに対する裾野も広く、サッカーを楽しんだ経験を持つ市民も数多く存在したことが理由としてあげられる。 ③人口要因 さいたま市の人口統計を見ると1,201,455人(平成20年11月1日現在 埼玉県推計人口)となっており、周辺人口を含めると十分に地元に根差したサッカークラブが成立する規模であると推察される。 また、今回は全く検証していないが、地域住民の所得レベル・若年層・中年層などの世代構成も関係しているかもしれない。 ④行政によるサポート Jリーグ発足前は、三菱自動車工業サッカー部は東京豊島区に本拠を置いていたが、Jリーグ発足当時地元浦和への誘致するために県庁を含め積極的な活動がなされた。また、開幕当初は県庁職員が、浦和レッズを盛り上げるために、足しげくスタジアムへ通ったという。また、サポーターによる署名活動を経て、埼玉スタジアム2002の建設を行うなど、地元クラブへの支援が強固であったともいえる。 ⑤クラブ運営の成功 Jリーグ当初多くのチームが企業の広告的価値として考えていたクラブも多かったが、お金を払ってお客様を呼べる営業展開を図っていた。特に2002年から就任した犬飼基昭氏の経営手腕は低迷していたクラブを優勝争いができるほど育て上げた。また、選手の練習環境整備やサポーターとの対話、などの施策を行った。 ⑥熱狂的なサポーターとJリーグ当初の低迷期 Jリーグ発足当初、最下位周辺に位置しており、地域の期待に反した順位がまた、地域サポータにとって、当事者意識を植え付けたといってもいいだろう。これは、どのクラブにとっても順位が低いことがサポータ熱を引き出すとは考えられないが、その原因は私にはわからない。ただし、観客動員数や応援に対する熱狂度は周知の事実で、Jリーグからの委託研究でも浦和レッズのサポータはリピート率が高い。 ⑦三菱自動車工業サッカー部の歴史 浦和レッズの前進である三菱自動車工業サッカー部自体も、著名な選手を数多く輩出し人気のあるクラブチームであり、その当時のファンも浦和レッズに移行できたことも大きいといえる。 ⑧埼玉スタジアム2002の建設 駒場スタジアム約20,000人収容に対して、埼玉スタジアム2002は約60,000人収容である。一試合あたり平均で25,000人×客単価3,000円で考えた場合、従来の駒場スタジアムに比べて、75百万円も収益が増えることになり、クラブの財政面に大きく寄与しているといえる。 以上を推察とする。 |
by urawareds2005h
| 2008-12-09 23:01
| 浦和レッズ
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