宇奈月温泉事件判決とその後 |
事件と判決 まず、事件の経緯と判決は、参考文献によると下記のようになる。 Y鉄道会社は、大正6年以来、黒薙温泉を源泉とする温泉を約7,500mの樋管を通して宇奈月まで引湯し、大正10年から温泉営業に使用してきたところ、その樋管がA所有の土地を通る部分については無権限であった。昭和3年になって、Xは、このような樋管があることを知りながら、その土地をAから譲り受けた。この土地は、黒部川に面した急斜面の荒蕪地で雑木が茂るままに放置されており、1㎡当たり8銭ほど、全体でも時価30円位であったが、Xは、Y会社に対して、同土地とこれに隣接する自己所有の荒蕪地を1㎡あたり2円、総額2万円余で買い取るよう求めた。 Y会社がこれを拒絶すると、今度は、Y会社の樋管によって自己の土地所有権が侵害されているとして、所有権に基づく妨害排除として樋管の撤去請求と同土地への立入禁止を求めて訴えを提起したというものである。 これに対してY会社は、同土地が荒蕪地であってXにとっても利用価値がないこと、樋管の撤去には12,000円ほども要し、その間温泉営業を休止しなければならないので甚大な損害を被ることになる等として、Xの請求は、許される限界を超えた所有権の行使、すなわち権利の濫用であると主張して争った。1審、2審共にY会社の主張を認めたので、Xが上告。 大審院は、Xの請求は、所有権行使の外形は備えているものの、その実質は不当な利益を得ることを目的とし、所有権はそのための手段として用いられているから、社会観念上所有権の目的に反し、その機能として許される範囲を超えるもので権利の濫用に当たり、したがって、このような主張は保護に値しないとして上告を棄却した。 その後 当時の宇奈月温泉事件として争われた樋管のある荒蕪地は、国が長い年月をかけて建設した多目的の宇奈月ダムが平成13年10月に完成し、宇奈月温泉木管事件の係争地はダム湖水の下に隠れてしまった。現在は、宇奈月温泉の上流に宇奈月ダムが建設されて、ダム周辺が整備され、尾の沼谷の周辺には公園が建設されている。 現在、黒薙温泉から引いている樋管は、合成樹脂管(ポリエステル石綿積層高圧管)を使用し、ダムの水位のために当時の木管の位置より上に設置しトンネルで通している。 宇奈月町は、町民と観光客のために新しく小さな湖畔公園を作り、その第2展望広場に「宇奈月温泉木管事件碑」を建立した。黒部川のみかげ石で、高さ2メートル、横2.6メートル、厚さ1メートルの大きさである。事件と判決の簡単な説明文(副碑)が刻まれている。 [参考文献] 藤村 和夫『民法を学ぼう』法学書院、2008 [参考URL] 高岡法科大学 学長 吉原 節夫「宇奈月温泉事件判決後日談」 http://www.takaoka.ac.jp/zatsugaku/045/yoshihara01.htm 大東文化大学法学部・野口昌宏研究室「宇奈月温泉事件」 http://www.daito.ac.jp/~mnoguchi/tanto_kougi/kougi_sousoku/sousoku_unazuki.html |
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by urawareds2005h
| 2009-01-05 01:53
| 日々雑感
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第85回東京箱根間往復大学駅伝競走(復路)―東洋大学総合優勝おめでとう!! |
Ⅵ.その時来る(復路) 6区 2009年1月3日午前8時箱根のスタート地点から出発した。後続の早稲田大学は22秒差のスタートした。 ここで驚くは、当初スターティングメンバーであった大西一主将から、2年生富永への変更起用。大西一は、過去2年連続で山を下っており、またハーフ、20Kの公認記録もチームの中でも最速の部類に属する。朝食後に佐藤監督代行は、6区にエントリーしていた大西一主将から、補欠の富永に変更することを両者に告げると、自然と涙がこぼれたという。しかし、「はい、わかりました」と受け入れ、献身的に富永の付き添いを務めた。監督代行のこの決断の真意は、現場の状況を知らない私には、正直わからない。 さて、6区で対する早稲田の加藤は山下りで過去区間記録を持つ。傍目に見てここでの早稲田が逆転することは明らかだった。しかし、前日快走した柏原の記録が早稲田を狂わせたと言っていいのでは無いだろうか。早稲田側は、実力のある加藤で最初から飛ばし、大差をつける作戦にでた。一方、東洋側は、9区までに2分差があってもいいと、あえてプレッシャーをかけることはしなかった。復路2年生を4人起用した中で、プレッシャーをかけないことで、本人達の実力を発揮させることができたのだと思う。 実際走り始めると、早稲田加藤は序盤から飛ばし始めあっけなく22秒差あった東洋大学に3キロすぎに追いつくこととなる。しかし、早く捕えて『バンバン行け』との指示に重圧が左脇腹痛をうみリズム良く走ることができない。よって東洋大学富永と5度の逆転劇を繰り広げる体力消耗戦の末、18秒差しかつけることができなかった。 この6区でのタイム差が大きく離れなかったことが、東洋大学優勝に大きく近づけたといっていい。 7区 早稲田ルーキー八木は、焦りからか前半突っ込んだ。10キロ付近までに1分5秒差を広げたが終盤、失速。一方、淡々と走る東洋大学飛坂が区間賞の猛追見せフィニッシュ時点では、秒差を縮める。 8区 東洋大学千葉は、7.8キロで早大に追いつき並走。16.5キロ地点スパートし逆転する。 9区 東洋大学大津は、序盤から飛ばさずに抑え気味の走り。一方早稲田朝日は、逆転をかけ序盤から突っ込む。結果、中盤でタイム差を縮められたが、最終的には早稲田との差を1分26秒にまで広げた。 10区 1分26秒の差をもらった東洋大学高見は、無理をせず安全策で走った。記録よりも、総合優勝をめざした走りで、難なく総合優勝を勝ち取った。 Ⅶ.総合優勝を果たして 今年の箱根駅伝は、駒澤大学、東海大学、順天堂大学が来年のシード権を落とすなど波乱が起きた。 東洋大学総合優勝は、5区柏原の怪物的な走りが早稲田へのプレッシャーをかけ、戦略的な狂いを生じさせた賜物だったのでは、無いだろうか。いや、戦略以前に選手のポテンシャルがなければその実行は無いのであるが。 さて、総合優勝を果たした後も、選手たちは胴上げをすることは無かった。不祥事に対する礼儀である。 初優勝を飾った「箱根駅伝慰労会」がその日の夜行われた。昨年の12月に不祥事に対する引責辞任後、公式行事に出席することを控えていた川嶋前監督、終了間際に現れ、最後に挨拶に立った。「優勝おめでとう。でも、勘違いしないでほしい。2連覇、3連覇、4連覇を目指して頑張れ!!」と涙ながらに檄を飛ばした。選手、コーチ、OBら出席者全員が目頭を熱くしていた。 参考資料: スポーツ報知 |
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by urawareds2005h
| 2009-01-04 20:52
| 日々雑感
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第85回東京箱根間往復大学駅伝競走(往路)―東洋大学初優勝おめでとう!! |
Ⅰ.最初に 私は東洋大学大学院経営学研究科(2002年修了)出身である。2000年からの箱根駅伝応援の初心者だが、彼らの快挙には、テレビ中継の前に涙ぐみ、非常に勇気をくれた。感謝したい。 Ⅱ.今までの箱根駅伝と東洋大学の歴史 東洋大学は、過去84回の箱根駅伝開催の中で66回出場、歴代出場回数5位の位置にある。(1位:中央大学82回、2位:日本大学 79回、3位:早稲田大学 77回、4位:法政大学 72回に次ぐ。 ) 一方、歴代の総合順位は、総合成績3位(S35年)、往路4位(S15年)、復路2位(S35年)と、出場回数における順位は低迷しているといって過言ではない。 また、平均順位は、8.5位とシード権確保ギリギリの順位と言っていい。 近年、東洋大学が箱根駅伝が強くなったのは、H14年の川嶋伸次監督の就任以降と言ってよいのだろうかと思う。 さて、2008年を振り返ると、日本三大大学駅伝の一つ出雲駅伝では、同校歴代最高記録のタイムを記録した5位と、全日本駅伝の4位と非常に好位置につけていたといっていい。 また、箱根駅伝エントリーメンバーも出場校数の中でも最も早い最高タイムを持っていた。 Ⅲ.不祥事と監督辞任 東洋大陸上部員(20)が強制わいせつ容疑で逮捕された事件で、関東学生陸上競技連盟は5日、都内で特別審査委員会を開き、来年1月2、3日の箱根駅伝への出場を認める一方、大手町と芦ノ湖での応援団を伴う応援禁止などの処分を決めた。引責によりここまで東洋大学陸上部を大きく育てた川嶋監督が辞任。また、陸上部の1週間の練習禁止と、集団応援の禁止となった。一方、2004年の中越地震の被災地・長岡市山古志地域の住民らが、1月2、3日に行われる「第85回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)」で、東洋大学(東京都)の応援に駆けつける。同大は、部員の不祥事のため大学としては応援を自粛することを決めているが、住民らは「東洋大には復興でお世話になった。今度は俺らが元気づける番」と応援に行く。 東洋大は、長島忠美・元山古志村長の母校で、震災後には延べ約4000人の学生ボランティアが倒壊家屋の片づけや仮設住宅での被災者支援などに尽力。長岡市と復興などの分野で「包括連携協定」を結んでいる。 8月には、陸上部の選手が山古志で5日間の夏合宿を行い、「箱根の山を制するには“山越し(山古志)”魂が必要だ」と起伏の激しい道を走り込んだという。住民らは「落ち込んでいる選手を元気づけたい」と自主的に応援に行くことを決めたという。 “応援団”は約15人で、1月2日未明に山古志を出発し、往路・復路とも小田原中継所近くの箱根山麓で声援を送る予定だ。ただし、大学の意向に従い、横断幕や手旗などは持たないという。 応援に行く「山古志住民会議」の星野勇代表は「山古志のために力を尽くしてくれた東洋大への恩返しになれば」と話している。 Ⅳ.その時来る(往路)① 今年の東洋大学の箱根駅伝の戦略は今までの戦略とまるで違った。これは、層が厚くなった部分が大きいと私は考えているが、それまでの箱根駅伝の戦略は、前半の特に3区までが目立ち首位近辺にいて、目立つ。そして、箱根の山の上り下りで14位前後になり、かろじて総合でシード権を荒そう戦い方とは全く違うエントリーメンバーを配置する意思をうかがい知れた。 1区では、最高タイムではさほどでもないが、先月行われた関東10マイルロードレース大会で優勝した調子の良い若松を配置。一区は、各校が牽制し合う区間でもあるためさほど差が出ない(ここから続くものは、私見であり、まったく根拠に乏しいです。。)。 2区は、エース区間であるところにベテランの4年生山本を起用。 3区も、東海大学佐藤や早稲田竹沢などのエースを並べる区間であるところにエース大西智を起用。 4区は、繋ぎの区間と考えられる処に、1年生宇野を起用。 そして、最後に1年生ながら関東インカレにて好成績を出し、かの山の神様と言われた元東海大学今井の記録に挑戦する意気込みを語った柏原を起用した。 Ⅴ.その時来る(往路)② 1区はスタート直後からスローペースで進んだ集団の中で、若松選手がボジションを変えながらの展開にスパートの時期をうかがっているように見えたが、終盤に来て集団から離されるもトップに18秒差の8位に踏みとどまり鶴見中継所に。順位こそ、8位なれど先頭と18秒差は十分な出来だ。 2区の山本選手は、前方を追撃できる絶好の位置で襷を受けるも、最後の箱根で見せ場を作れずに終わり残念な走りであった。 3区の大西智選手は、鉄紺史上43人目となる4年連続箱根駅伝出場を果たし、トップ追撃への流れを立て直す実力の走りで5人を抜き去り、箱根ラストランを東洋記録更新で締めくくった。この時点でトップ山梨学院大との差は3分33秒。区間記録も3位となる。 4区は柏原選手と双璧をなす1年生のスピードランナー宇野選手。9位で襷を受け取るも一時は3位集団に追いつき先頭を走る強気な走りに、大器を片鱗を感じる。小田原中継所でのトップ早大との差は4分58秒。 そして5区の山上りは今や学生長距離界期待のルーキー柏原選手。この時、9位の現在位置から3位までの時間差は約1分。私は、この時3位までの可能性は十分あるのではと思い固唾を飲んで中継を見守った。スタート直後から持ち味の積極果敢な攻めの走りで快調に飛ばす。前半快調に飛ばすものの、私の目にはあの山の神様と言われた今井と同じような走りをするとは、考えつかなかった。今までの東洋大学箱根駅伝でよく見てきた、気持のはやりが自らを掻き立て、後半失速のパターンかと感じた。観客としては、それは悪くないとも感じていた。顧みない気持ちで走り続けてくれとも思った。しかし、1年生の彼がここまでやってくれるとは、予想だにしなかった。トップまでおよそ5分のビハインドがある中、19歳の鉄紺ランナーが他校の選手を次々に抜き去る見慣れない光景に鳥肌が立ちつつも、「もしかしたら」との予感が頭をよぎりはじめる。前を行く日体大をかわして3位に浮上した瞬間、これは往路優勝が現実に起こるのではと今度は胸が熱くなる。2位の山梨学院大を捉え、ついにトップの早大をかわした瞬間、思わず快哉を叫んだ。かつて第80回大会の2区で三行選手が8人を抜いてトップに立ったとき以来の感激であった。その後、早大・三輪選手に再三粘られるも、昨年の関東インカレで駒大の3選手に競り勝った最後の勝負強さを目の当たりにしていたので、柏原選手のラストスパートを信じていた。そして、鉄紺東洋の伝統に新たな歴史を刻むべく、初の往路優勝のゴールを柏原選手がガッツポーズで駆け抜けた。山の神様(今井)から、山の神童(柏原)の誕生した瞬間である。 往路優勝の表彰の時に語った、柏原のあどけない笑顔が印象的な瞬間であった。 参考ホームページ: 輝け鉄紺 http://www.geocities.jp/toyogogo_tu/ 読売新聞 |
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by urawareds2005h
| 2009-01-02 23:22
| 日々雑感
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浦和レッズ成功のカギ |
3年ぶりのブログです。。 先日、ある教育機関でのレポート(論文ではありませんのであしからず。。)がでたので、ついでに掲載しておきます。 本論:浦和レッズの成功のカギについての先行研究は、ぶぎん地域経済研究所の主任研究員である松本博之氏のものがあり、他には幾多の書籍、コラムがあるが筆者の知る限りでは経営学的見地から推察されているものや統一的な見解を示唆しているものは、無いように思われる。よって、以下の文章はある程度、他者の意見も取り入れながら、私自身の仮説も含めながら展開するが、時間的な制約もあることから、ここでは出典や検証に乏しいことはご容赦願いたい。 さて、浦和レッズがリーグを代表する観客動員数と予算規模を持つようになったことは、次のことが考えられる。 ①地理的要因 浦和レッズが浦和市に誘致されるまで、浦和周辺地域には目立った娯楽施設がなかった。西武ライオンズは、所沢市という埼玉県の西部地域にあり同じ埼玉県にありながらも、生活圏ではない。 また、海水浴をするにでも神奈川・千葉といった地域に流れ、遊園地は豊島園・後楽園遊園地や東京ディズニーランドに訪れることが多く、野球も多くはヤクルトスワローズ・読売巨人軍と魅力的なものが浦和周辺地域になかったことがあげられる。 地域的には、東京地域に勤務するベットタウンの色合いが強く、新幹線などの停車駅もなく、長らくこの地域に住んでいるものも地元への誇りとなるべきマグネットがなかったといえる。 ただし、旧浦和地域は文教都市でもあり、また高級住宅街の部類であったことから、潜在的な可能性も秘めていたものと思われる。 ②埼玉におけるサッカーの歴史 日本サッカーとして埼玉県における歴史が古く、日本サッカー御三家と呼ばれるように、埼玉県のサッカーは強豪である。特に、高校サッカーでは、浦和高校・浦和西高、浦和南高、市立浦和高校と全国大会でも実績を残したし、その後日本を代表する選手たちも数多く輩出した。また、サッカーに対する裾野も広く、サッカーを楽しんだ経験を持つ市民も数多く存在したことが理由としてあげられる。 ③人口要因 さいたま市の人口統計を見ると1,201,455人(平成20年11月1日現在 埼玉県推計人口)となっており、周辺人口を含めると十分に地元に根差したサッカークラブが成立する規模であると推察される。 また、今回は全く検証していないが、地域住民の所得レベル・若年層・中年層などの世代構成も関係しているかもしれない。 ④行政によるサポート Jリーグ発足前は、三菱自動車工業サッカー部は東京豊島区に本拠を置いていたが、Jリーグ発足当時地元浦和への誘致するために県庁を含め積極的な活動がなされた。また、開幕当初は県庁職員が、浦和レッズを盛り上げるために、足しげくスタジアムへ通ったという。また、サポーターによる署名活動を経て、埼玉スタジアム2002の建設を行うなど、地元クラブへの支援が強固であったともいえる。 ⑤クラブ運営の成功 Jリーグ当初多くのチームが企業の広告的価値として考えていたクラブも多かったが、お金を払ってお客様を呼べる営業展開を図っていた。特に2002年から就任した犬飼基昭氏の経営手腕は低迷していたクラブを優勝争いができるほど育て上げた。また、選手の練習環境整備やサポーターとの対話、などの施策を行った。 ⑥熱狂的なサポーターとJリーグ当初の低迷期 Jリーグ発足当初、最下位周辺に位置しており、地域の期待に反した順位がまた、地域サポータにとって、当事者意識を植え付けたといってもいいだろう。これは、どのクラブにとっても順位が低いことがサポータ熱を引き出すとは考えられないが、その原因は私にはわからない。ただし、観客動員数や応援に対する熱狂度は周知の事実で、Jリーグからの委託研究でも浦和レッズのサポータはリピート率が高い。 ⑦三菱自動車工業サッカー部の歴史 浦和レッズの前進である三菱自動車工業サッカー部自体も、著名な選手を数多く輩出し人気のあるクラブチームであり、その当時のファンも浦和レッズに移行できたことも大きいといえる。 ⑧埼玉スタジアム2002の建設 駒場スタジアム約20,000人収容に対して、埼玉スタジアム2002は約60,000人収容である。一試合あたり平均で25,000人×客単価3,000円で考えた場合、従来の駒場スタジアムに比べて、75百万円も収益が増えることになり、クラブの財政面に大きく寄与しているといえる。 以上を推察とする。 |
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by urawareds2005h
| 2008-12-09 23:01
| 浦和レッズ
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私のムスコ |
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by urawareds2005h
| 2006-10-23 21:10
| 日々雑感
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